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第二次黒井城の戦い

吉川元春援軍が到着する前に、明智光秀軍は信貴山城の戦いが終了する天正5年(1577年)10月、第二次丹波国征討戦を開始する。まず明智光秀軍は、多紀郡にある籾井城、桑田郡にある亀山城 (丹波国)を落城させた。この二城を丹波国征討戦の本拠地とした。第一次丹波国征討戦と違い、明智光秀軍は一挙に黒井城を攻めようとせず、慎重に周りの城から攻城していく個別撃破戦略をとった。織田信長は細川藤孝、細川忠興親子の援軍を送り、翌天正6年(1578年)3月に八上城と氷上城の包囲を完成させる。

この時に赤井方では、主将である郷土の赤井直正が病没するという一大事件がおきる。同年3月9日のことであった。『ひょうごの城紀行』によると「首切り疔(化膿してできる腫れ物)」の病ではなかったかと言われている。数十年に亘り実質的な赤井氏の指導者であった赤井直正の死去は丹波国に大きな影響を与えた。一旦は明智光秀を裏切った丹波国の国人衆は、二城が陥落し、赤井直正が死去、八上城を攻囲するのを見ると再び明智光秀に降っていった。赤井家では赤井直正の弟の赤井幸家が後見となり統率することになる。
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翌天正7年(1579年)3月に八上城と黒井城の分断を目的に金山城を築城する。各支城を落城し、金山城の効果を出始めてきだしたのか、

同年5月5日 氷上城 落城
極度の飢餓状態になった八上城に対して、『信長公記』によると「調略をもって」という記載がある事から、八上城兵に対して働きかけがあったと思われている。

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2009年11月13日 14:05に投稿されたエントリーのページです。

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